ゆるす
ゆるす、という感覚は、とても分かりにくい感覚。
許す、という漢字と、赦す、という漢字。
天赦日という吉日がありますね。
天がすべての事をゆるしてくれる日という。
悪いことをしてもゆるされる、ということではないというのは、そのイメージから伝わります。
何をしてもいいよ、という許可がじゃんじゃん与えられる?
それもそれで、無秩序な感じもする。
私が、セルフヒーリングをするとき、最近はこんな世界を描いています。
持病である喘息は、胸や気道が詰まる…それは言いたい事を言えない自分がいる(いた)という事実に気づくためである、という考え方。
幼少期を含め、子供頃はずっと親の顔色を見ながら育ったという、思い出したくないしんどさが、私にはあります。
そんな幼い自分の側に時空を超えて寄り添います。
「言えなかったんだよね。」
「本当はとっても言いたいことがあったんだよね。」
「怒られるのが怖かったよね。」
「泣きたかったんだよね。」
背中をさすりながら、でも大丈夫だよ。
言えなかったことが悪いことなのではないよ。
よく頑張ったので、そこは君のとても誇らしいところだよ。
泣いてもいいよ。
寄り添っていいよ。
ここにずっと一緒にいていいよ。
本当は君は心優しくて、すごくすごくいい子なんだ。
君に会えて私はとても嬉しいよ。
そう語りかけながら、しばらくしばらく深い呼吸をする。
自分を愛するということは、そうやって過去の自分をゆるしていくことなのではないかな?と、実感する時間です。
そのときの「ゆるす」という感覚は、許可というものでもなく、罪を許すというというものでもなく。
言葉にできないのです。
そして、言葉にしなくても良いと思うのです。
そして、自分に対してだけでなく、他人にも、周りの事象にも、そんな思いを向けることが徐々にできるんじゃないか、できたら幸せかな、どうなのかな。
毎日、問いかけています。
ゆるす、ということ、私の今年のテーマとして、ここに久しぶりに書いてみました。